anoxia

上池袋anoxia

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そもそも人が集まるとは何だろうか? 現場でエネルギーのうねりのようなものを感じることはよくあるし 、自分にとってそれは抗いがたい快感と言える。 芸術の有無は問わない。 その疑似体験をネットだけに求めるのは少々安易だし、 その快感を捨てるという選択肢もあるのかもしれない。
家で一人で本を読んだり音楽を聴いたりする行為は以前から当たり 前にしていた。 それは作品を媒介にして自分と向き合う行為であるし、 人と会うことと同等に価値があることだ。 どちらか一方だけだと難しいと感じるが、 現状はひたすら自分と向き合い続けるしかない。 うねりは自分の内部で完結し、 作品に自分のうねりは反映されない。 もし反映されているように感じたらそれは自分の内部がうねったの だと言える。
自分と向き合う場として作品を考えると、 実はまだまだやらなくてはいけないことは多いのではないかと思う 。というよりも、 現場で人が接触する喜びと同時にそれによってこぼれ落ちるものが あったのかもしれないし、 そこに目を向けるチャンスが今なのかもしれない。 自分の内部のうねりはヒントになりそうだ。 自分に自分以外の何かが入り込む感覚というか、 凝り固まっている自分が解けるように感じる。 なぜそのように感じるのか、その正体は何か。
結局人が集まろうが集まらないであろうが、 解けるという感覚を自分は重視している。 人の集合という豊潤は魅力的だけれど同じ地点に一人でも行くこと ができるのだろうし、そこに挑戦したいと考えている。

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そもそも公演とは何だろうか? 主催者が一方的に時間と場所を指定し、人を集める。それは一つの在り方でいいとは思うが、同時に在り方の一つでしかない。在り方が一つの選択肢しかないというのは貧しいことだったのではないかと 思う。 観客が能動的に動くことは基本的には皆無である状態はあまり健全ではなかったのかもしれない。
観客が演者に直接コンタクトを取り自分のために場を設けることがあっていいし、演者もそれを受け入れる動きが起こらないだろうか。願わくば観客と演者が共に一から場を作って欲しい。役割は異なるが関係は対等であり、そもそも人間関係とはそういうものだと思う。

休止のお知らせ

新型コロナウイルスの感染防止のため当面活動を休止いたします。

 

ライブができなくなってとても困っています。ただ、 これもいいタイミングかなと思ってこの機会に保留していた録音作 品について考えています。 聴き手が任意の時と場所で再生する録音作品が、 聴く度に不定形な現場そのものであることは可能なのでしょうか。 もちろん演奏も同様なのですがただ不定形であることに価値がある わけではなく、 いま聴いている音楽はもう二度と聴くことはできないという事実を 突き付ける現場に常に居続けたいです。 演奏では朧げながらこんな幻想を持てるのですが録音はなかなか難 しいなあと思っていました。
最近は考えが変わってきて、 そもそも生演奏の場であっても自室のPCの前であってもその時そ の場所であることは変わらず、 等しく一つの現場なのだと思えるようになってきました。 感情的には生演奏の場により価値を感じてしまうのですが、 客観的に考えると実はそこに優劣はなさそうです。
そう考えると俄然おもしろくなってきました。 演奏と録音は完全に別物ですが、 ともに音楽に近づける道の一つであるという当たり前のことを実感 できるようになった気がします。

時形時景

『時形時景』展を体験してくださった皆様、関係者の皆様本当にありがとうございました。

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入室して左側、半紙にクレヨンで描かれた絵二点と針金が私の作品です。

部屋に立ち、部屋を凝視します。
凝視とともにクレヨンを握っている私の行為の痕跡が半紙に残ります。
その痕跡をさらに凝視し、行為が続いていきます。
そうして描かれた絵を展示させていただきました。

現場の凝視は私にとってとても大切です。
現場に愛情を持って向かい合うこと。
向かい合う時間を大切にすること。
それは私にとって作品制作を超えて、人生の営みそのものです。
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【中止】4/15 収束

本公演は中止致します

 

4月15日(水)

『収束』

open/start  19:30/20:00

1000円

 


出演

加藤裕士

 

凝視によって立ち現れた存在の境界を受け止めようとさらに凝視する。受信機である自分自身は吐き気がするほど鋭敏になる。

 

時間は時間だけで自立はできない。それは自分自身も同様であり、あらゆる存在すべてが該当する。存在と存在を区別する境界を受け止めることから始まる。

ダイアリーソング

galleryDEN5で開催された『ダイアリーソング』 展終了しました。やはりやってみると見えてくるものも多く、 今後まだまだ考えていくべきですね。


・死(または鎮魂)
今回の展示の通奏低音であり、私にとって(おそらく福家さんも) 作品を発表する意味はもうここにしか見出せません。 抽象的な概念について話していると感じられたかもしれませんが、 私たち3人にとって死を見つめることは感情について見つめること だと言えます。亡くなってしまった人のことを想うとき、 その死者自身の現在を想っている実感よりも、 死者との記憶など過去に属することを想っている実感の方が私はあ ります。どこまでも死者に届かないのかもしれませんが、 届くか届かないかではなく届きたいという想いを大事にしたいです 。
むしろこれは相手が死んでいるか生きているかも問題ではなく全く 同等です。 存在の感情が他の存在によって揺れるという当たり前のことを、 当たり前に受け入れられるかどうか。 存在と存在を区別する境界をじっと見つめること。 そういったことを考えています。


・美術と音楽の違い
私が普段演奏活動をしていることが多く、 展覧会で作品を発表することが始めてだったため美術と音楽の違い について話す機会が多かったです。私の見解は、 そこに違いはない、です。
美術と音楽を分かつものの一つは時間だと改めて認識しました。 つまり今を実感することです。 考え方はそれぞれだとは思いますが、 私は美術作品においても今を実感することが非常に稀にあります。 文学作品なども同様です。今とは一体何なのでしょうか。 そもそも現在のことを現在として見つめることができるのでしょう か。常に少しだけ過去のことしか見つめることはできず、 見つめることで過去は現在になる、 存在は常に固定されずまた別の存在に変貌し続けている。 今とは実体を持たない想像上の存在だからこそ行為を介す必要があ るのでしょうし、その行為を突き詰めればいつでも今は出現する。 という理想です。 結局は存在についての問い掛けが根底にあることは変わらず、 行為がどのような素材を媒介にして成されるかの違いだけしかなく 、現場で行為や素材と向かい合うしかないということです。あと、 素材への愛情はとても重要な要素です。


・作品の死
今月さらに掘り下げます。


体験してくださった皆様、関係者の皆様、 本当にありがとうございました。