anoxia

上池袋anoxia

【中止】4/15 収束

本公演は中止致します

 

4月15日(水)

『収束』

@銀座 奥野ビル306号室

(306project.web.fc2.com/index.htm)

open/start  19:30/20:00

1000円

 


出演

加藤裕士

 

凝視によって立ち現れた存在の境界を受け止めようとさらに凝視する。受信機である自分自身は吐き気がするほど鋭敏になる。

 

時間は時間だけで自立はできない。それは自分自身も同様であり、あらゆる存在すべてが該当する。存在と存在を区別する境界を受け止めることから始まる。

ダイアリーソング

galleryDEN5で開催された『ダイアリーソング』 展終了しました。やはりやってみると見えてくるものも多く、 今後まだまだ考えていくべきですね。


・死(または鎮魂)
今回の展示の通奏低音であり、私にとって(おそらく福家さんも) 作品を発表する意味はもうここにしか見出せません。 抽象的な概念について話していると感じられたかもしれませんが、 私たち3人にとって死を見つめることは感情について見つめること だと言えます。亡くなってしまった人のことを想うとき、 その死者自身の現在を想っている実感よりも、 死者との記憶など過去に属することを想っている実感の方が私はあ ります。どこまでも死者に届かないのかもしれませんが、 届くか届かないかではなく届きたいという想いを大事にしたいです 。
むしろこれは相手が死んでいるか生きているかも問題ではなく全く 同等です。 存在の感情が他の存在によって揺れるという当たり前のことを、 当たり前に受け入れられるかどうか。 存在と存在を区別する境界をじっと見つめること。 そういったことを考えています。


・美術と音楽の違い
私が普段演奏活動をしていることが多く、 展覧会で作品を発表することが始めてだったため美術と音楽の違い について話す機会が多かったです。私の見解は、 そこに違いはない、です。
美術と音楽を分かつものの一つは時間だと改めて認識しました。 つまり今を実感することです。 考え方はそれぞれだとは思いますが、 私は美術作品においても今を実感することが非常に稀にあります。 文学作品なども同様です。今とは一体何なのでしょうか。 そもそも現在のことを現在として見つめることができるのでしょう か。常に少しだけ過去のことしか見つめることはできず、 見つめることで過去は現在になる、 存在は常に固定されずまた別の存在に変貌し続けている。 今とは実体を持たない想像上の存在だからこそ行為を介す必要があ るのでしょうし、その行為を突き詰めればいつでも今は出現する。 という理想です。 結局は存在についての問い掛けが根底にあることは変わらず、 行為がどのような素材を媒介にして成されるかの違いだけしかなく 、現場で行為や素材と向かい合うしかないということです。あと、 素材への愛情はとても重要な要素です。


・作品の死
今月さらに掘り下げます。


体験してくださった皆様、関係者の皆様、 本当にありがとうございました。

3/22〜3/29 時形時景②

時間を主軸に据えた展覧会です。展示作品における時間をどのように捉えていますか?私は極まっている作品は時間を直接体感させると思っています。ここでいう時間とは単純に音楽や舞台や映画のように作品の継続時間のことです。つまり、優れた作品はライブである。
なぜこのように考えるかというと、私の意識的な美術体験の原風景がそもそもそういった類のものだったからです。学生時代にマーク・ロスコ展を体験し開眼しました。絵画作品なのに時間の経過と共に出来事が移り変わり、収束しました。終わったとはっきり分かる瞬間がありました。
音楽は終わるために演奏される、という考え方があります。音楽を生み出すだけではなく、しっかり死なせることを考えなくてはいけないと私も思います。それは展示作品も同様で、しっかり死ぬためにしっかり生きる。むしろ人生そのものですね。

3/22〜3/29 時形時景①

時形時景
会場:銀座奥野ビル306号室
http://306project.web.fc2.com/index.htm
期間:2020年3月22日(日) 〜 3月29日(日)
時間:平日 16:00〜20:00
土日 13:00〜18:00
観覧料:無料 (イベント料金別途)
主催:セグメンツ事務局

詳細はこちらになります。
https://segments.info/event/tokei-tokei.html

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2/14〜3/1 ダイアリーソング③

魂を常に正しい位置に配するとは、存在の然るべき境界を明確に受け止めることだと最近考えています。それでは境界とは?存在が先だってその後に境界が生まれるのではなく、まずは無数の境があって、そこから浮かび上がってくる(かのように見える)界のことを存在と呼べるのではないでしょうか。つまり境界=存在そのもの。境をしっかりと見極める必要があります。判断基準を制度や慣習に委ねるのではなく、個人がどう決めるかが肝ですね。その手がかりの一つとして波動・リズムが考えられそうです。

2/14〜3/1 ダイアリーソング ②

言水:
「死者を思う」っていうとき、「死者」 そのものを思っているのではなくて、 その死者が生きていたときのことを思い出しているのではないか。 死者そのものを思うことができるだろうか、 死者の声を聞くことはできないだろうか。 というようなことを今日はなんとなく考えていました。
 
加藤:
死者はなかなか対象としずらいとは思います。「死者そのもの」 を具体的に認識することができないですし。
ただ、だからこそとも思います。認識することができない、 でも存在することは感覚で分かる、 ということを作品というまた別の存在によって世界に刻むことがで きるのではないだろうかという希望です。 それをやらなくちゃと感じるか感じないかの違いが人によってもち ろんありますが、 やらなくちゃと自分が感じてしまった以上やらないわけにはいきま せん。
どこまでも届かなそうな感じがしますがそれをどうしても捨てられ ない。そんな気持ちで自分はやっています。
 
言水:
もの、や、こと、でなにかできると考えたり、 あるいは知らぬ間になにかやっている、というのは、 加藤さんのおっしゃるような「希望」なんだなと、 読んで思いました。ありがとうございます。
 
加藤:
自分にとって希望はとても大きいです。「死」だったり「鎮魂」 などについて考えることは生きるうえでとてもポジティブなことだ と思っています。優しさそのものと言えるかもしれません。
死者そのものへの思いだったり死者の声を聞きたいと思うことも、 やはり優しいことなのではないかと思います。
 
福家:
私は「祈り」もそういうことなんだと思います。
そして、死者とは他人だけではなく自分でもあるから「鎮魂」 して常に正しい位置に配しておきたいなぁと思います。
 
言水:
ああ、自分も死者なんですね! 福家さんからうかがった、自分を鎮魂するということ、 瞑っていた目が開いた思いがしました。
 
(2019年12月17日のやりとり)

 

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2月に言水ヘリオさんと福家由美子さんと私の3人で展覧会をやらせていただきます。イベントページの詳細にもありますが鎮魂はもちろんのこと、死に非常に近い内容にはなると思います。この3人(と藤崎くんの4人)は去年からより密に思考を共有しているのですが、その流れのなかでこのタイミングで展覧会があるというのはとてもしっくりきます。さらに、4人で展覧会直前に足利遠征をしようと考えていてそれも展示作品に少なからず影響を与えるのではないかと思っています。グループ展的な感じではなく、3人で1つの作品を作ります。

ここからはさらに個人的な話です。私は展覧会を行うのは初めてですが、やること自体は普段の演奏とまったく一緒です。むしろ媒介が音だけであることに少し違和感がありましたのでいい機会をいただけて嬉しいです。存在が然るべき地点にいて欲しい。または、存在の然るべき境界を明確に受けとめたい。これらは現時点の私にとっての鎮魂の行動指針です。まずはより思い遣りをもって物事に接しないといけないなと思っています。

3人それぞれこの展覧会への想いはあるはずですが、3人の核がとても似ていることをお互いに分かっているので、変な言い方ですが安心感がとてもあります。この核をさらに多くの方々と分かち合えれば。ぜひお越しください。