anoxia

北鎌倉/音楽/美術

ダイアリーソング

galleryDEN5で開催された『ダイアリーソング』 展終了しました。やはりやってみると見えてくるものも多く、 今後まだまだ考えていくべきですね。


・死(または鎮魂)
今回の展示の通奏低音であり、私にとって(おそらく福家さんも) 作品を発表する意味はもうここにしか見出せません。 抽象的な概念について話していると感じられたかもしれませんが、 私たち3人にとって死を見つめることは感情について見つめること だと言えます。亡くなってしまった人のことを想うとき、 その死者自身の現在を想っている実感よりも、 死者との記憶など過去に属することを想っている実感の方が私はあ ります。どこまでも死者に届かないのかもしれませんが、 届くか届かないかではなく届きたいという想いを大事にしたいです 。
むしろこれは相手が死んでいるか生きているかも問題ではなく全く 同等です。 存在の感情が他の存在によって揺れるという当たり前のことを、 当たり前に受け入れられるかどうか。 存在と存在を区別する境界をじっと見つめること。 そういったことを考えています。


・美術と音楽の違い
私が普段演奏活動をしていることが多く、 展覧会で作品を発表することが始めてだったため美術と音楽の違い について話す機会が多かったです。私の見解は、 そこに違いはない、です。
美術と音楽を分かつものの一つは時間だと改めて認識しました。 つまり今を実感することです。 考え方はそれぞれだとは思いますが、 私は美術作品においても今を実感することが非常に稀にあります。 文学作品なども同様です。今とは一体何なのでしょうか。 そもそも現在のことを現在として見つめることができるのでしょう か。常に少しだけ過去のことしか見つめることはできず、 見つめることで過去は現在になる、 存在は常に固定されずまた別の存在に変貌し続けている。 今とは実体を持たない想像上の存在だからこそ行為を介す必要があ るのでしょうし、その行為を突き詰めればいつでも今は出現する。 という理想です。 結局は存在についての問い掛けが根底にあることは変わらず、 行為がどのような素材を媒介にして成されるかの違いだけしかなく 、現場で行為や素材と向かい合うしかないということです。あと、 素材への愛情はとても重要な要素です。


・作品の死
今月さらに掘り下げます。


体験してくださった皆様、関係者の皆様、 本当にありがとうございました。