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北鎌倉/音楽/美術

即興的瞬間について

「即興的瞬間」というワードは現在の即興演奏だけでなく、音楽だけでなく、あらゆる表現を自分なりに消化するうえでとても役に立つ。そもそもこの言葉が完璧に定義づけられているかは甚だ疑わしく、むしろ一人一人が異なった考えを持っているのではないかと思うし、その運動体を緩やかに成立させるための潤滑油程度に考えてもいいのかもしれない。従って、この場での「即興的瞬間」とは加藤個人にとっての「即興的瞬間」であり、この文章が何かを総括するものではないということをご理解ください。一方で、「音響」のように意味の全体像があまりに見えにくくなりすぎて誤解発生機になってしまうのもどうかと思うので今後あえて定義づけをする必要もあるのかもしれない。ただそれは今後の話。

 

何かの表現を発表したり鑑賞したりする。ここでは即興の要素が含まれる音楽を例に考えてみよう。音楽と一言で言ってもそこには膨大な量の情報が含まれている。むしろ、音楽とは音を媒介にして常軌を逸した情報量を伝達するメディアであると考えてみると、むしろ情報の圧縮力/圧縮する方法に感心する。美しさすら感じる。よくもまあこんなにたくさんの情報や現象を詰め込んだものです。ただ、ここで誤解して欲しくないのは、情報=音数ではない。音数を極端に増やして脳をショートさせようと目論む音楽は多い。例えば大音量のノイズミュージックは分かりやすい。ノイズミュージックだけでなくロックミュージックやダンスミュージックなども情報(音)の飽和とそれにより脳の思考を飛ばすという意味で同様かもしれない。自分でも一面的だなあと思うが、つまるところ発生している出来事を思考や感情が処理できずオーバーヒートを起こしている状態が所謂「チョーヤベー」状態ではないだろか。そう考えるとその技術に長けた者が職人として、さらにチョーヤベー状態を明確な目的として作り上げることの素晴らしさも感じる。

 

話を「情報=音数ではない」というところに戻そう。例えば、サイン波をひたすらほとんど変化もなく鳴らすという演奏であってもグッとくる演奏はあるという事実が示している。微小な変化だけなのにも関わらずもしかしたらそこには膨大な情報があるというのか。僕はあると思っている。即興音楽や現代音楽は変化に乏しくつまらないと思われがちだが、それは聴き手の情報の感受の問題だ。そこにある膨大な情報に気づかないとつまらないだろうし、気づいてしまうと俄然おもしろくなってくる。手掛かりとしてまず挙げられるのは鳴っている音そのもの、音色だ。サイン波は極端だが、鳴らす楽器や機材の音自体に含まれている情報に着目する。音楽は音を曲の構造や形式に沿って配置していくが、曲の構造を取り払ってしまうと音だけが残る。ただ、それは「純粋な」音ではない。倍音の連なりや音の減衰など物理的な要因をもって、同じだと思っていた音でも時間とともにグラデーションがあることに気づくし、音に纏わる歴史や記憶、意味するであろうものを聴き取ってしまう。そうすると、わざわざ多様な音を鳴らさずとも音色の持つ複雑で豊潤な世界に没頭することができる。むしろ、そういった角度で音を聴いていると少しの変化がまるで世界の変化のように感じられる。できるだけ視点をミクロに設定することで結果的にマクロな世界に触れてしまう。このことに特に敏感な人が多いのが即興演奏を用いる音楽の現場であったと思う。メロディー、和音、リズム(ビート)を一旦放棄しようと考えた時、まず音色に注目するのは自然な流れだ。音色であるところの周波数成分、そもそもの周波数、音量といったものを操作することを自身の音楽と決めることは大いに納得できる。


しかし、割と早い段階でまた違ったフェーズに進む人も多かった。音楽、音といった物理的な位相にもちろん意識を配らせつつ、また別の位相にも気付いてしまった人である。そしてここから更に情報が拡散することになる。